写真を撮るというのは難しいわけではないんです。シャッターボタンさえ押せてしまえば、今の時代はデジタルで撮れます。だからこそ一枚の価値が下がったともいえるし、便利になりました。
簡単なデジタル写真でも
フイルム写真には劣るところはあるかもしれませんが、性能ではフイルムカメラに勝っており、デジタルカメラは高品質に撮れます。それも誰でも撮れる時代になったのです。
これは大手元請けの方に質問されたんですが、写真で食っている人間は何人ぐらいいるのかというものです。確かに商業写真や写真素材としての写真で食っている人もいます。少なからず写真だけ撮って生きている人もいれば、両方をやって有名な写真家になった方もいます。
どの業界にいても変わらないこと。
商業写真にイロハがあるので盗んでいくしかない部分、考えるしか無い、時代に合わせた写真業界に合わせていくしかないのです。それは全ての写真業界に言えることで、食っていける人間は全てではないということです。
本職として拘る必要はあるのか?
僕は写真業界の中にいませんが、フォトブロガーという道を選びましたが副業というカタチだから続けることができるからです。写真という仕事に関わりたい。写真をもっと知ってもらいたい。奥深いところに写真があること知ってほしいのです。
確かに新興芸術なので、絵画や陶芸などに劣ることはあります。歴史は浅いです。しかし、誰かに何かを伝える表現方法として、写真があるわけです。もっと写真を楽しんでいくためにも余裕がある生活を送りたいとは思いますが。
写真を撮ることは誰でもできるからこそ、深みがあるのです。
写真を撮るということは誰でもできますし、そこにテクニックや知識、感覚など色々なものを試行錯誤をします。写真を撮り続けることに飽きてしまい、辞めてしまう方がいますが、続けていくうちに見えてくるものあるのです。自分から学び、考え、行動し実行する。改善し繰り返す。失敗を楽しめる人こそ、写真に向いているのかもしれません。
写真家の作品がただ単の偶然で生まれているわけではありません。今までの積み重ねが写真に命を吹き込み、一つの表現をカタチにすることができるのだと思います。
表現に苦しんで辞めたとしても、やり直せる環境を作ってあげたい
挫折することもまた人生であり、表現方法はたくさんあります。僕としては写真が合わなかったとしても表現をやめることさえしなければいいと考えいて、僕がブロガーになったのは、たくさんのクリエイターが諦めても、何かが残るようにしてあげたいと思ったからかもしれません。
クリエイターが悩み苦しんで結果、残した表現が残らないのって悲しいものではありませんか。そのへんの壁に書いたラクガキが評価されるのは納得するのは難しいです。
僕たちのやってきたことは何か意味があったのか?と思いながら、人生を終わるなんて嫌なので、表現をやめたくないし、そう思って終わってほしくないのです。