僕はAIを否定しない。正確に言えば否定されるべきところと受け入れられるべきところはあると思っている。
創造に介入するような作品をAIに頼むなら反対
僕は写真というもので芸術を生み出しているわけで、誰かの写真や、僕の写真を学習させて、新しい写真を生み出すというのであれば反対。
知らない場所を写真のようにするなど写真ではないし、SNSで発信されているデマ動画も、結局偽りに過ぎないわけである。政治家が市民を撃つようなデマ動画を制作し、意図的に政治というものに混乱を招く行為が正しいわけがない。
僕はAI絵師というものや、AIartというものが僕のSNS上に流れてきたら、即ブロックするようにしている。AI絵師を支持するユーザーに対して嫌悪感すら感じてしまう。
補助的な秘書的役割があるならAIなら賛成
スケジュール管理や今日の天気を見なくても勝手に教えてくれる秘書的な扱いができるのであれば、補助的なAIであれば価値があると思う。時間を無駄できないからもあるけど、写真的な話を含めるなら、時間に余裕がある方が写真に対して表現レベルできる余裕はできるからである。
表現の過程を大事にするためAIを活用するなら、表現する時間を守るAIなのでAIとして十分の価値があり、過程をAIに担保するのであればアートといえるのか本人の作品とはいえない人間の表現、先人たちが積み重ねてきた全てを否定する行為である。
キャパオーバーしているところ補うのがAIのあり方では?
AIというもので思考する部分を補助してくれるのは嬉しい。キャパオーバーしている社会人は多く存在するだろう。しかし表現する思考するというのは人間の脳みそにとって活性化をもたらすもので、脳が老けていくのを予防する効果がある。好奇心がある人ほど若々しく、元気であるというのは僕個人は感じるところで、趣味や芸術を楽しみ、仕事に真面目て向き合っている人間ほど格好良いものはない。
どのように努力したところで確かに絵を上手く書けない人たちがいる。才能がないだけであって、他に才能はある。しかし他人の絵をデータとして取り扱い、自分でプログラムを施していないAIで学習させて、生成されたものを自分の作品として公表する行為が「クリエイター」といえるだろうか?
誰かの想像力や技術力がなければAIだって動作しない時点で、すでにクリエイターとして価値はないのである。何度も生成するためにキーワードや書き込む文章に気を使うんだろう。ChatGPTを使ってみたことがあるからわかる。
気に使うときの努力を別のベクトルに使わないんだろうか?と疑問に残る。AI生成された写真を認めるわけにはいかない。写真という新興芸術が、絵画や陶芸に並ぶため、必要な壁であり守らなければいけない社会的課題である。
